笠寺観音 人質交換記     もどる
 
〜 徳川家康と岡崎衆との絆 〜


 戦国の武将で徳川家康ほど時代の流れに翻弄された人はいない。そのことについてお話しよう。
 
 時は戦国乱世の時代。徳川家康(幼名 松平竹千代)の父、松平広忠は、三河を治めていた。東には駿河の今川義元、西には尾張の織田信秀(織田信長の父)に挟まれ、三河の国は、どちらに占領されてもおかしくない状態にあった。

 松平竹千代が七歳頃のこと。松平竹千代は、尾張織田家の人質として、幽閉生活を強いられていた。織田信秀の命により、熱田の豪族加藤順盛は竹千代を預かっていた。順盛は、幽閉生活を送る幼い竹千代を気遣い、お菓子や玩具等を与え、優しく見守っていた。

 同じ頃、三河に竹千代の母「於大の方」(刈谷城主水野忠政の娘。愛知県知多郡緒川城 現東浦町緒川で生まれる)がいた。
 「奥方様も、聞くところによると、お可愛そうなお方だそうな。初めてお嫁に行かれた岡崎のお城に、竹千代様という三つにもならぬお子を残して、刈谷(「於大の方」の実家)へ帰されたということだ」
 母に仕える者たちはそんなことを口にしていた。母も孤独で寂しい生活を送っていたのだ。

 天文十八年(一五四九)秋、竹千代は、熱田の豪族加藤家を発ち、山崎川を渡り、笠寺観音へとやって来た。織田家の人質としての生活も今日が最後。この笠寺観音の地で、竹千代の身は、今川家へ渡されるのである。秋風に木の葉が舞う中、今川方の使者たちを待っていた竹千代は、静かに目を閉じ、自分がこれまで送って来た不遇の数々を振り返っていた。

 天文十一年(一五四二)十二月二十六日、寅の刻(午前四時)、竹千代は、松平広忠の長男として、岡崎城で生まれた。
 
 天文十三年(一五四四)、竹千代が三歳の時、母「於大の方」の兄である水野信元(水野忠政の長男。刈谷城主)が、尾張の織田氏についたため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた父の広忠は、竹千代の母「於大の方」を離縁した。そのため、竹千代は、幼くして母と生き別れとなったのである。
 
 天文十六年(一五四七)、岡崎城が織田信秀に攻撃された。岡崎城主松平広忠は、今川義元に援軍を頼んだ。この時、松平広忠は、今川義元から援軍の代償として人質を求められた。そのため、竹千代は、松平家安泰のため、今川氏への忠誠の証しにと、今川氏の人質として、岡崎から今川義元の居城、府中(今の静岡市)へ送られる運びとなったのである。しかし、竹千代に思いがけない災難が襲う。今川氏に送られる途中の田原城で、戸田康光(松平広忠は戸田康光の娘と再婚。竹千代の義母の父)の裏切りにより、今川氏に人質に行くはずが、織田氏への人質として尾張へ送られることになったのである。下克上の世は、何が起こるかわからないものである。竹千代は、こうして、織田家の人質としての生活を余儀なくされたのである。

 その二年後、父、松平広忠は、家臣の謀反によって殺害される。母とは生き別れ、父は死ぬ。竹千代は、人質として見知らぬ土地、尾張で幽閉され、天涯孤独の生活を余儀なくされていたのだ。そんな中、母「於大の方」は、竹千代に対して、音信を絶やすことなく、心のこもる慰問の品々を送り続け、少年期の竹千代の心の支えとなったのである。

 織田家と敵対関係にあった今川義元は、天文十八年(一五四九)、安祥城の戦いで生け捕りにした信長の兄、織田信宏と、織田家に人質になっていた竹千代との交換を、織田信長に申し入れた。なぜ、今川家にとって竹千代が必要であったかというと、竹千代を人質にすることにより、織田方が今川方を攻撃した際、今川方の盾として、竹千代の家臣である三河の岡崎衆を利用したかったからである。
 天文十八年(一五四九)、ここ笠寺観音で、今川家と織田家の人質の交換がおこなわれた。笠寺観音が名刹であったのと、笠寺の辺りが、織田方と今川方の勢力の狭間だったからである。

 今川方が到着し、人質の交換が始まった。その時である。嗚咽とも叫びともつかない声が竹千代に聞こえて来た。
 「若、若、若様。若様覚えてなさるか。大久保の爺ですぞ」
 人質交換の使者となったその男たちの顔に、大粒の涙が、一つ、また一つ。大粒の栃の実ほどの大きな涙がはらはらと、あふれんばかりに流れた。涙を流したのは、岡崎衆のまとめ役、大久保忠勝と大久保忠員であった。

 彼等は、竹千代の祖父、松平清康から三代にわたって仕えた宿老で、後に蟹江七本槍衆と呼ばれる者たちだった。織田方と今川方との戦いでは、常に岡崎衆は、先方隊として、敵陣の最前線で戦った。岡崎衆たちの辛苦を思えば、自分の今までの苦労や天涯孤独にさいなまれてきたことなどいかばかりか。涙を流す家臣たちの姿を見つめる竹千代の心に、強く響くものがあった。
 「そうだ。私は天涯孤独ではない。この岡崎衆の、この岡崎衆との一心一体の心の絆こそ、自分が生涯大切にしなければならぬ」と。今度は、竹千代の頬に、一筋の涙が流れた。「弓矢八幡大菩薩に誓って、譜代の者一人一人と、信義を変えることはない」これが、竹千代が天下取りの源となったのである。

 一方、無事に交換が終わるのを、岡崎衆三百余名の武者が、鳥居山(現在の丹八山)でかたずをのんで見守っていた。「交換が、無事終わった」との知らせの後、鍬形兜の大将を先頭に、岡崎衆たちは、笠寺観音でお参りを済ませ、竹千代と共に駿河へと向かった。

 しかし、竹千代は、織田氏と今川氏の桶狭間の戦いで、今川方が負けるまで、岡崎の主になることはなかった。駿河の府中城にて、今川方の人質の生活を送っていたのである。
 人質生活を送る竹千代の胸に刻まれていたのは、「自分は孤独ではない。この岡崎衆と一緒に自分の城を守りたい」との一念。この絆を心に秘めて、じっと耐える、じっと耐える。岡崎のために、岡崎衆のために・・・・。
                              



※注一
 弘治元年(一五五五)織田方の尾張蟹江城を三河松平(当時今川属領)が攻め落とした戦いで、功名をあげた七人を指す。七人武将は、阿部忠政・大久保忠勝・大久保忠世・大久保忠佐・大久保忠員 ・杉浦吉貞・杉浦勝吉。

※注二
 笠寺『鍬形祭』・・・天下太平や子どもの無事息災を祈念する『鍬形祭』。戦国時代、織田信広と竹千代(徳川家康)の人質交換が、笠寺観音で行われたことが由来といわれている。
 バレンという竹の棒で、他地区の子ども同士が戦い、鍬形兜を奪い合う勇壮な祭りだったが、太平洋戦争中の混乱から、昭和十七年を最後に中止となった。
 平成十七年、笠寺地域の皆さんの力によって『鍬形祭』は復活した。飾り付けをした鍬形やバレンを持ち、ほら貝の音頭に合わせ「ニーワーカーニ」「ホンマニツイテ」「チョーサンヨ」「ハーサンヨ」と勇ましく掛け声を上げながら、笠寺観音を出発し、七所神社、弦月線などを経由し、笠寺小学校までの道のりを元気に練り歩く。それ以後、毎年子どもの日の五月五日に、開催されている。

参考資料
 信長公記  三河物語 徳川実記  小説 徳川家康(山岡荘八)
 人物日本の歴史U 日本中探訪第五集

[参考]
 徳川家康の遺訓(といわれる)
 「人の一生は、重き荷を背負うて遠き道を行く如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば、不足なし。心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りを敵と思へ、勝つ事ばかり知りて、負ける事を知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて、人を責むるな。及ばざるは、過ぎたるにまされり」

作者後記
 「絆」とは、「友好」と違い、みんなのために、個々の自己犠牲(思いやり)の上に成り立つものである。人間関係が希薄になりつつある現代社会に、竹千代と岡崎衆との関係のすばらしさを描いてみた。 
福原 伸二


    笠寺観音境内の「人質交換の碑」

徳川家康略年譜(年齢は数え年
「人物日本の歴史Uより」

天文十一年(一五四二)   一歳 三河国岡崎城主松平広忠の長男として誕生。幼名竹千代。初名元信。のち元康、家康。
天文十六年(一五四七)   六歳 今川義元の人質として駿河(静岡県)に行く途中、戸田康光に捕らえられ、織田信秀のもとに送られる。
天文十八年(一五四九)   八歳 今川義元の軍が織田信広を捕え、それと交換に家康は今川氏にとりもどされ、駿河に行く。
永禄三年(一五六〇)   十九歳 今川義元の上洛軍に先陣となったが、桶狭間に義元敗死後、岡崎城に入り、自立する。
永禄五年(一五六二)  二十一歳 織田信長と攻守同盟を結ぶ。
永禄九年(一五六六)  二十五歳 従五位下三河守に叙任され、勤許を得て松平の姓を徳川と改める。
元亀元年(一五七〇)  ニ十九歳 浜松城に移る。織田信長を助けて、姉川の戦いに朝倉・浅井連合軍を撃破。
元亀三年(一五七二)  三十一歳 三方ケ原の戦いで、武田信玄の軍に大敗。
天正三年(一五七五)  三十四歳 織田信長と連合して、長篠の戦いに武田勝頼を破る。
天正十年(一五八二)  四十一歳 信長と呼応し、武田氏を滅ぼす。上洛して堺に滞在中本能寺の変に際会し、急ぎ帰国する。
天正十二年(一五八四) 四十三歳 織田信雄と結び、豊臣秀吉の派遣軍を小牧・長久手の戦いに破る。
天正十四年(一五八六) 四十五歳 秀吉と和し、以後臣事する。駿府城に移る。
天正十八年(一五九〇) 四十九歳 小田原征伐後、関東に移封を命じられ、江戸城に拠る。
慶長三年(一五九八)  五十七歳 秀吉死去の際、後事を托され、五大老筆頭として、大坂城内に政務を執る。
慶長五年(一六〇〇)  五十九歳 上杉征伐に北進中石田光成らの挙兵を聞き、兵を返して関ヶ原に西軍を撃破、覇権を握る。
慶長八年(一六〇三)  六十二歳 右大臣・征夷大将軍に任じられ、江戸城に拠る。
慶長十年(一六〇五)  六十四歳 将軍職を子の秀忠に譲り、翌々年駿府城に引退。その後も大御所として幕府の実権を掌握。
慶長十九年(一六一四) 七十三歳 方広寺鐘銘事件を口実に大坂城討伐の軍をおこす(大阪冬の陣)。大坂方と和議。
元和元年(一六一五)  七十四歳 大坂夏の陣をおこし、豊臣氏を滅ぼす。
元和二年(一六一六)  七十五歳 四月十七日、駿府城に病没。久能山に葬られる。
元和三年(一六一七)  正一位を追贈。東照大権現の勅号を受け、遺命により日光山に改葬される。
天保二年(一六四五)  東照社に宮号を下賜、東照宮と改める。